夫婦の絆
晴琉 (はる) パパさんより
初めに、かん助産所でかん先生に見守られながら 『晴琉』 が生まれたことを心から嬉しく、そして妻に ”ありがとう” と伝えたいです。
「かん助産所で子供を産みたい」 妻はそう言いました。素人の私が聞いて「『いいよ」 と返事をすることができませんでした。一緒に助産所を見学し、かん先生の人柄、そして何より妻の思いを尊重して、かん助産所で産むことを決めました。検診を重ねるうちに、子供が生まれ父になる事がとても楽しみで、また不安でもありました。でもエコーで元気な姿を見せてくれる我が子と妻の笑顔を見るたび心が安らぎ、徐々に不安より楽しみの方が大きくなりました。
予定日を過ぎても生まれる気配がなく、不安な日々を三人で過ごしました。妻の心も不安定になり、予定日から1週間が過ぎ、そろそろ病院での出産を考えた頃 『かん助産所で子供を生みたい』 と言った妻の言葉を思い出し、私の心の中でずっと思っていたことが言葉になりました 『晴琉をここ(かん助産所)で生ませてあげたい。』。その言葉が伝わったのか、晴琉はその日に生まれ、その日に抱っこすることができたこと、晴琉には言い表せないくらいの感謝の気持ちでいっぱいです。この気持ちは出産に夫も深く関わり妻を支え夫婦の絆を築いていかないと感じる事は出来ないんだと思います。最後に今回の出産にかかわっていただいた全ての人に、ずっと見守ってくれたかん先生に、晴琉を生んだくれた妻に、そして私たちの宝(息子)晴琉にありがとうと伝えたいです。
ママさんより
ついに、私がこのノートを書く日がやってきました。この日がくるのをずっと願ってきました。私は妊娠したら助産院でお産するのが夢でした。
予定日の前くらいから約1週間、前駆陣痛が毎日あり、寝不足と不安で心身ともに辛い日々が続きました。先生に診てもらっては帰るということの繰り返しでした。「このままでは病院に行くことになってしまう」一日一日が過ぎるにつれて焦りも大きくなりました。「後悔しないようにできることを何でもしよう"」と、毎日のように小牧山を登り、ひたすらお腹に話しかけました。明日で41周になってしまうという日、夫と金華山を登った帰りの車で夫婦二人で一生懸命晴琉に話しかけました。その翌日、明け方から定期的な痛みがあり、夫に仕事を休んでもらって助産所へ行きました。ところがまだ・・・。「今日は成田山の階段を5往復だ!神頼みだ!」と外に出ることになりました。その出発前、夫が私のいない所で先生に「晴琉をここで産ませてあげたい。」と伝えていました。助産所を出てから急に痛みが今までのものと変わりました。とても成田山は無理だと思い、安産祈願へ行った真清田神社へ向かい、助産所に戻りました。それからみるみるお産は進み、「こんな痛みには耐えられない!」とパニックになりかけていた頃、「お湯入っていいよー」と言われ、入る事に。入ってみると不思議と気持ちよくて力が抜けてリラックスできました。痛みが来たら夫につかまっていきみ、おさまったらプカプカ浮いてウトウトしていました。初産なのと、晴琉の頭が大きかったため時間がかかったのは辛かったですが、合間で心音を聞き晴琉が元気に頑張ってくれているのを感じて私も頑張れました。
晴琉が生まれて浮いてきて、晴琉をだきとめ、晴琉が泣いてくれた時「ああー、よかったぁー」と心からホッとしました。カンガルーケアをしている時「私にもちゃんと生めたんだぁー」と思えて嬉しかったです。あの時の晴琉の感触は一生忘れません。
助産師より
一宮市は助産院が4件もあり、私の所が一番古い普通の民家です。お見舞いに来た人たちは口をそろえて、どこで産んだの? と聞くぐらいの所です。ママは初産にも関わらず最初から助産院を希望されていたので、なぜここで産もうと思ったのか理由を訪ねてみました。返ってきた答えは「私、沖縄が好きで1人旅に出かけたりしてたんです。本当に自然な形でお産を経験したかった。見学に来て、ここだと思ったんです。」 変わった人と言えば変わった人かも知れない。けれど私は、その答えが嬉しかった。何気ない日常の中で家族を作り子供達を育てていく。気負うこともなく、自然の中で、優しく、川が流れるように時間が流れ、振り返ったら、子供を生み子供が育ち夫婦二人が微笑んでいる。そのことが最高だなと思えるんです。晴琉くんのパパ・ママは長いお産の時間を経験したけれど自分たち夫婦二人が持てる力を全部注ぎ込んで晴琉くんを生み、育てられている。辛い経験だったけれど振り返ってみれば優しく心を震わすぐらい感動した時が流れていた。その二人を横で見ることができて、助産師の私も最高に喜び、感動をおすそ分けしていただきました。
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